グラバー話(1)──富三郎の最後

日光鱒釣紳士物語
どこからはじめるべきかよく分からないが、とりあえず。プロジェクトXみたいになりそう(w。

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1870年(明治3)年、奥日光の湯川に川鱒(ブルックトラウト)を放流することになるトーマス・ブレイク・グラバーに、のちに倉場富三郎を名乗ることになる新三郎が誕生する。母親は蝶々夫人のモデルとなったともいわれる妻ツルではなく、加賀マキという女性であったという*1。いずれにせよ、英国人と日本人の血を引くのは間違いない事実である。
倉場富三郎は終戦から11日後の1945(昭和20)年8月26日に長崎の自宅で縊死する。長崎の自宅というのは、今や観光スポットとなっているグラバー邸ではない。グラバー邸の対岸には三菱造船所のドックがあり、1939(昭和14)年、そこでは戦艦「武蔵」の建造がはじまっていた。英国人の血を引く倉場富三郎はそれでなくてもスパイではないかと官憲より疑いの目を向けられていた上、軍事機密が厳重に保護される中、転居を余儀なくされ、グラバー邸を手放し、近くの小さな洋館に転居していた。富三郎の妻はワカという。ワカの父親は英国商人のジェームズ・ウォルター、母親は日本人であり、富三郎同様の境遇にあった。ワカは1943(昭和18)年に亡くなっている。最愛の妻を亡くし、スパイではないかとの疑いをかけられ四六時中当局より監視される富三郎が精神的に追いつめられていっていたことは想像に難くない。そして、長崎は広島に次いで原爆を投下された都市であり、そのこともまた富三郎の自殺の契機となったのではないかと想像されるが、僕の手元にある資料ではその関係ははっきりとは分からない。富三郎とワカの間に子はなく、倉場家はここで絶える。
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ちなみに、グラバーの生地であるスコットランドアバディーンにあるAberdeen Art Gallery & MuseumsにはDavid FARQUHASONという画家のThe Herring Fleet Leaving the Dee, Aberdeenという作品が所蔵されている*2。リンク先の解説文中にグラバーの名がある。

In the 1880s connections with Japan were being forged by pioneer traders such as Thomas Blake Glover, who settled in Nagasaki in 1859. He is honoured in Japan for the instrumental role that he played in the birth of Japan's new economy. Glover imported an Aberdeen built slip-dock and supplied Aberdeen built warships to the Japanese Navy, constructed in the massive shipbuilding sheds which are visible here, on the left in the middle distance.

*1:福田和美『日光鱒釣紳士物語山と渓谷社、1999年、pp.49-50

*2:すでにお気づきかもしれないが、美術館のトップページにもこの作品の部分図が使われている。同美術館におけるこの作品の重要性が分かる