みっともない日本の私

kechida2007-04-04

こんな記事を書いたので、『美しい日本の私 (講談社現代新書)』と『あいまいな日本の私 (岩波新書)』を読んでみました。
大江健三郎の作品は好きで、けっこういろいろ読みましたが、作品の評価とは別にこの人の立ち位置というか社会的発言にはイマイチ共感を持てずにいて、やはり『あいまい〜』を読んでも同じことを感じました。
まず、この人は根っからの戦後民主主義者というか、進歩的知識人だと思われます……(私は完全に戦後民主主義日教組的な枠組み内にいる人間ですが……)。そして、この人の外国コンプレックスみたいなのも正直ちょっと……。それから、すごく権威主義的なところもアレです。東大仏文〜岩波にそれが端的に現れています(『あいまい〜』も岩波新書
この本に「世界文学は日本文学たりうるか」という講演も収録されています。大江的には「日本文学は世界文学たりうるか」って言いたいのじゃないか、という気もしますが、そこを「世界文学は日本文学たりうるか」と書くところがなんとも文学って難しいなぁと思うところであります(正直なところ意味がよく分かりません)。この講演中、大江は日本の作家を3タイプに分けています。すなわち、日本の伝統に属する戦前の作家、すなわち大江的には川端康成に代表されます。そして、戦後派というか、世界の文学の波に洗われそこから多くを学んだ作家たちがいて、それは安倍公房や大江になります。最後に、世界がサブカルチュア化した現代の作家、すなわち吉本ばなな村上春樹がいます。川端はノーベル賞をもらったし、春樹やばななは大江の200倍本が売れるワケで、われわれの世代だけが陥没していた。しかし、今回の受賞し、ようやく名誉を挽回できた。みたいなことが書かれています。先日、もしかしたら春樹がノーベル賞か?とやや盛り上がってました。私は全然興味がなかったのですが、この『あいまいな』を読んだら、ぜひとも受賞して欲しくなりました。名門とはいえ、私大である早稲田を7年もかけて卒業し、国分寺でジャズ喫茶やっていたなんて経歴は、大江的な権威主義に対して、きわめて中央線的な反骨精神を感じます。春樹がもしも受賞したなら、彼は『美しい〜』『あいまいな〜』につながるような講演をするのでしょうか? たぶんしないと思います。それが村上的というか中央線的なのじゃぁないかと。
ちなみに川端の「美しい〜」はとても素敵な文章でした。大江の「あいまいな〜」は、たとえば現代文のテストに使われうるテキストだと思います。意味が明確だし、あらゆる文章に意味があるし、多くのテキストを参照しています。頭脳の明晰さが際立ちます。一方、「美しい」はとても入試問題のテキストにはなりえません。何を言っているのか判然としませんから(笑。でも読むとするする読めてしまいます。「美しい〜」には日本文学研究者・サイデンスデッカーの英訳も掲載されていますが、むしろ英語の方が意味がはっきり分かります*1。カバーに「「美しい日本の私」について」という題の江藤淳の文章が添えられています。

スウェーデン学士院は、あるいは川端氏が、東と西のあいだに論理の橋を構築することを期待していたかもしれない。しかし彼らの見たものは、おそらく黒々としたみぞであり、そのかなたに咲きはじめた一輪の花、むしろつぼみであった。そしてそのつぼみには白く輝く小さな露が寄りそうていた。それが川端氏の「美しい日本の私」である。

私の浅はかな理解では極東の島国の文士である川端は、世界文学の側からの誘いに対してちょっとだけアッカンベェをしたというか煙に巻いたのだと思います。私は川端と大江の両方の講演を読み、圧倒的に川端に親近感を覚えました。大江は「美しい日本の私」というのは「あいまい」だと批判しています*2、すなわち、美しい日本に分けるべきなのか、美しい日本の私に分けるべきなのかよく分からず「あいまい」だ、というのです(ちなみに英語では「日本と美と私」と読みうる文章に訳されています)。私は、この批判は意味がないと思います。いまいち意味が判然としない美文で講演を通した川端は、その締めくくりに、自作に対する虚無的だという批判に対して、いや違うんだ、と言っています。私は、「美しい日本=美文」の中にあいまいに拡散していくような「私」のあり方こそが日本的なのであり、このような最終的には自己が消滅するような境地にいたる「日本の私」こそが「美しい」のだと高らかに川端は宣言しているように思えます。川端は受賞の数年後、ガス管を咥え自ら命を絶ちました。遺書はなく、三島由紀夫の自刃に動揺したことなどがその理由とされています。
ここに補助線を引いてくれるのが我らが大竹伸朗なのでしょう。

*1:多くの現代人がそうであるように、私は日本の古典を読み込む能力がまったくありません

*2:『あいまいな日本の私』には「回路を閉じた日本人ではなく」という講演も収録されており、川端の講演を「あいまいだ」と言い、それを「悪い意味でいっているのではありません」とわざわざ断っているが、まったく無意味というか、端的に題が大江の批判的意図を表しています。