サブカル、ニューアカ、カウンターカルチュア

kechida2008-01-29

仙川日記を読んでいたら、たけくまメモへの言及がありました。私が感じた違和感というか、ちょっと考えたことなど。
まず、前提として忘れてならないのは、たけくまメモのエントリは、ロフトプラスワンで行われたというシンポジュームで東浩紀が「おたくは差別されていた」と発言したことに対する違和感が出発点になっているということです。発言者が東浩紀であるということを考慮するなら、その限りにおいてこれは間違っていないと思います。80年代とはどういう時代かと言えば、「おたく」と「ニューアカ」の時代だったわけです(あと補助線として、田中康夫の『なんとなくクリスタル』を忘れてはならないでしょう)。放言的に言うなら、ニューアカ=ハイカルチュアの最後の牙城『批評空間』の連載をまとめた『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』という著書をひっさげ論壇デビューした東浩紀にしてみれば、やはりおたく文化は下位の文化であったわけです。しかし、東浩紀は同時代の文化としてのおたく文化にあまりに深く入れ込んでいたため、これを簡単に下位の文化として切り捨てられないわけです。その葛藤が「差別されていた」という認識につながるのではないかと思うのです。ニューアカの中心的人物のひとりであった浅田彰は、アニメといえば「トムとジェリー」の世代です、とおたく文化とまったく接点のないことをユーモア混じりに表明していたことが象徴的です。現在の東浩紀の批評家としての活動を全く知りませんが、私が知る東氏は、ひどく図式的に言ってしまえば「おたく」と「ニューアカ」を、お互いがあいまいにうなずき合う接点において肯定するというよりは、お互いがもっとも過激に自らの姿を曝す地点において両方を同時に肯定するというようなことに自覚的に取り組んでいるという印象を持ってました。
で、たけくま氏ですが、代表作『サルまん』には「ニューアカ」へのコンプレックスみたいなものが感じられないでもありません。まぁ、そういうことなのかなぁ、と思います。仙川二郎氏が言う『月刊OUT』という雑誌はよく知りませんが、ようするにそれはサブカルではなくてカウンターカルチュアなのでは?と思いました。私自身、この手の図式化を厭う気持ちは分かりますが、図式化するとスパーっと展望がひらけ、いろいろなことが理解できることもあるわけで、図式化を避けて通らないというのもひとつの見識なのだと思います。