The Fenwick Story

*以下の文章はフェンウィック社のサイトにある「The Fenwick Story」を個人的な興味から訳したもの。誤訳の指摘やご意見はコチラまで。

[内容]

  1. ワシントンの5人の男たち
  2. バンブーからグラスへ
  3. ロングビーチへいたる短い道のり
  4. メキシコでのつながり
  5. ランカースティックTMの誕生
  6. グラファイト革命
  7. ぼやけたヴィジョン
  8. 伝説の再生

ワシントンの5人の男たち

ここ50年、フェンウィックの名は世界中の釣り人の間で伝説となっている。フェンウィックの魅惑の歴史は40年代後半の西海岸に遡る。そこでは第二次世界大戦から帰ってきた男たちはたったひとつのこと、すなわちフライフィッシングに帰ることだけを心に思い描いていた。ワシントン州は現代フィッシング・ロッドの序章を書くことになる、ドン・グリーン、Clarence Shoff、ラミグラス、そしてフェンウィックといった名の発祥の地となるのであった。
1955年、ワシントン州ケントでのこと。熱心なフライフィッシャーでもあるシアトルの5人のビジネスマンのグループが、当時ようやく実用化されつつあったファイバーグラスのブランクを使うフィッシング・ロッド・メーカーを結成した。この新興企業の社長は、スポーツ用品の販売員であり、熱心なフライフィッシャー、ハンター、スキー・インストラクターであったSebastian (Buzz) Fioriniで、彼は初代のセールス・マネージャーになった。Fioriniは後にラミグラス社のために働くことになり、やがてはジョン・ウェインのヨット「ワイルド・グース」をrunning chartersすることで有名になる。そこでは、ビング・クロズビー、Phil Harris、Conrad Hiltonといった著名人たちを乗せ、案内した。
フライフィッシャーで、シアトルの不動産デヴェロッパーのT. Fred Lyndi、ボーイング社で技師として働いていたMax Dozier、彼の釣り仲間、Robert S. Lewsもまたフェンウィックの創始者であった。Fioriniがフロリダから連れてきたロッド・デザイナー、Ken Trislerも多少の出資をしていた。創業間もないフェンウィックがその革新的なロッドを作るための用地を探していたとき、Dozierは、ケントにほど近いフェンウィック湖の友人宅に使われていない二つのガレージを見つけた。創始者たちは生産の準備ができたとき、彼らのロッドが作られることになる湖の名を取り入れることが提案され、このアイデアによってフェンウィック・ブランドは生まれた。

バンブーからグラスへ

50年代初め、北西部ではポピュラーになりつつあった最新のファイバーグラス製のロッド・ブランクにたいする大きな需要を創出しながら、フライロッド・メーカーは急増した。40年代後半、インディアナ州サウスベンドのサウス・ベンド・ベイト・カンパニーでスタートを切ったロッド・デザイナー、Dick Snyderは、釣具店店主のClerance Shoffと一緒にラミグラスをはじめるために、ワシントン州ケントへ旅に来ていた。昔からのバンブーを使うかわりに、彼らは当時、急速に発達しつつあった最新のファイバーグラスの技術を用いてフライロッドを作りはじめた。30年後に自身のロッド・ブランド、セージを創始することになる正真正銘のフライロッド界の伝説、ドン・グリーンはShoffのもとで働き、そして彼とDick Snyderがラミグラスを結成したときに一緒に加わり、どのようにファイバーグラス製のロッド・ブランクを作るかを学んだ。新しいフェンウィック社の幕開けに、ドンは自分の道を進む機会を得て、ラミグラス社を去り1954年にグリズリー・ブランク社をはじめた。グリーンの新しいブランクを使って、スムーズでシャキッとしていながら、バンブーのような感じを持つかなり軽量のファイバーグラス製のフライロッドをフェンウィックは作りはじめた。
フェンウィック・ブランドの発足当初から、Fioriniは彼らの作り出すロッドが特色のある外見を持つべきだと考えていた。彼にとってすばらしいロッドとは、技術とアートが一体となるものであった。彼はクリエイティブ・ロッド・デザイナー、Ken Trisler──フロリダのCustom Build of Miamiという父の経営するロッド・ショップで働いていた──の噂を聞き、彼をフェンウィックのチーフ・デザイナーとして招いた。Trislerは独特のダイヤモンド・ラップをもたらし、それはすべてのフェンウィックのロッドを際立たせるものとなる外見上の特色となった。ダイヤモンド・ラップは最上級の品質の同義語となり、それ以後、ほとんどすべてのロッド・メーカーに模倣されることになった。Trislerが一本一本のロッドにラッピングをほどこし、彼の妻がそれぞれに手書きで文字を書き込み、ロッドは作られた。それらは魚を釣るためのものであると同時に、見ても美しいものであった。
ファイバーグラスからスムーズなアクションの良い調子のフライロッドのブランクを作ることは、最初思っていたより難しかった。バンブーはファイバーグラスより、モデュラスがより高い。ファイバーグラスはスローであり、ファイバーグラスのブランクでバンブーのような感覚を持つ十分な硬さを作り出すのは挑戦だった。必要とされる硬さを得るために、初期のファイバーグラスのブランクはソリッドだった。しかしながらグリーンは、ソリッドのものより丈夫で軽い、薄い中空のブランクを作る出すために、機械で成型された金属製の芯金(マンドレル)にファイバーグラスの層をどのように作り上げたらよいかを習得した。この瞠目すべき新しいブランクを作り上げ、バンブーのようなフェンウィックのアクションは北西部中に瞬く間に広がった
1955年、週に300本の生産に達したとき、生産体制はフェンウィック湖の二つのガレージを早くも超えていた。増大する需要に応えるため、生産設備はケントのダウンタウンにあった廃屋となっていた郵便局のオフィスに移転された。ここでフェンウィック社は、セールスマンのNate Buell──Buzz Fioriniは駆け出しの頃、彼のもとで働いていた──の目にとまった。Buellは、アメリカで釣り用品業界で最大級の卸売業を営んでいたガルシア・コーポレーションで働いていた。そこではフランスのスピニング・リール、ガルシア・ミッチェルの製品やスウェーデン製のアンバサダーのベイトキャスティング・リールも扱っていた。彼は、これらの新しいフェンウィックのロッドを彼のガルシア製品にたいするperfect complimentだと考えた。1956年、Buellはフェンウィック社の経営権を買い取り、ケントの小さな設備から、ワシントン州ウッドランドの工場へ移転した。Buellは、Fioriniと同じく、むかし彼のもとで販売員をしていたハロルド・エドワーズを呼び寄せ、工場のマネージャーとし、学校教師でカスタム・ロッド・ビルダーのロン・アンダーソンを雇い入れ、ワシントン州ウッドランドの女性たちにロッド・ラッピングの素晴らしい技術を伝授した。
Buellにとって不幸なことに、1957年問題が持ち上がった。ガルシア社は、自らのロッド・ブランドとしてカリフォルニア州サンタ・アンナのコノロンを獲得した。コノロンもまたファイバーグラス製のロッドのパイオニアであり、いち早く市場にいくつかの製品を送り出していた。Buellと彼の仲間たち(今やそこにはドン・グリーンも含まれる)はフェンウィックかガルシアを選ばなければならない事態に直面した。それはフェンウィックの歴史を次章につなぐための重要な決定だった。当時、ガルシアは釣り具産業において間違いなく最大級のプレイヤーであり、決断は簡単なことであった。Buellとグリーンは買い手を求め、カリフォルニア州ロング・ビーチ沿岸にフェンウィックが売りに出されていることを広めるためのうたい文句を探した。

ロングビーチへいたる短い道のり

カリフォルニア州ロングビーチの南で、Cliff Bringnallは40年代の間に、Sevenstrand Company社を成功させた。戦後、彼は古い洗濯機を用いてステンレス・スティールのワイヤーを7本に縒り合わせ、地元のanchovy fishermanの間で使われていたガットに替わる現代的なリーダーを作る方法を発明した。会社の拡大に伴い、Brignallはハワイで開発され成功したビッグゲーム用のナックルヘッド・ルアーの販売権を獲得し、ルアーの分野にも手を広げた。自身も熱心な釣り人であるBringnallはフェンウィックのことを、そしてBuellが買い手を捜していることを耳にした。Sevenstrand社をロッド・ビジネスにまで拡大すべきかをチーフ・デザイナーで熱心なフライフィッシャーでもあるジム・グリーンに相談した。決断は簡単だった。彼はフェンウィックを買収した。
1958年、Bringnallはフェンウィック・ロッドの生産をロングビーチのSevenstrand社の工場に移した。そこには生産設備、能力、そして最高品質のロッドを作り続けるという情熱があった。より重要なことは、Sevenstrand社によるフェンウィックの買収がフィッシング・ロッドの開発において強い影響力を持つ二人の人物──すなわち、ワシントン時代のフェンウィックのために薄いファイバーグラスのブランクを完成させたドン・グリーンとBringnallのもとにいた若いロッド・デザイナー、ジム・グリーンの二人──を引き合わせたことだ。彼らはともに、現代のフィッシング・ロッドの歴史におけるそれぞれの足場を切り開くことになった。
当時、ほとんどのマルチ・ピースのロッドは単純にブランクを二つに切断し、金属製のフェルールで継いでいただけだった。ジム・グリーンはフライ・キャスターのかつてのワールド・チャンピオンだった。実際のところ、彼は競技で初めてサーモンフライを200ヤード*1も投げたものだった。彼はまた、まったくの完璧主義者だった。彼は、1ピースのフライロッドがどんなに素晴らしい振り心地かを知っていた。そして、当時の硬い金属製のフェルルールを使った2ピースのロッドのアクションが大きな妥協であることも知っていた。彼は1ピースのアクションを持つ2ピースのロッド作りに着手した。1960年のある晩のこと、開発のための試行錯誤に挫折していたとき、グリーンはロッド・ブランクを二つに折って、先端の半分をより大きなロッドブランクのブランクの上に押し込んだという。突然、フェンウィックのグラスとグラスを継ぐフェルールのアイデアが生まれた。FerruliteあるいはTaper Lock ferruleと称され*2、この技術はフライフィッシングの世界に革命を引き起こし、このタイプのフェルールは、今日いまだに多くのグラファイト・ロッドに使われている。
開発にはさらに2年かかり、1ピースロッドのようなスムーズなアクションを釣り人に提供する最初の2ピースのフライロッドが市場で売り出されるより早く、フェンウィックはパテントを取得した。このような新機軸や、フェンウィック独自の超軽量PerflexTMガイド・システムとともに、フェンウィックはフライロッドばかりではなく、スピニング、サーフ、ライト・オーシャン、ボート、ビック・リバーの各種ロッドの全製品で、メーカーとして拡大成長を続けた。

メキシコでのつながり

1960年代前半、二つの離れた出来事が一緒になりアメリカのフィッシング・ロッド産業のその足跡を残した。1961年、ヘンリー・クロックと彼の二人の息子、フィルとラルフによってフェンウィック社が買収されたのが最初の出来事である。しかし、奇妙なことにフェンウィックとSevenstrand社のクロック家への売却はもっと早い時期に、1958年から始まった一連の出来事とともに始まった。しかもそれはカリフォルニアではなく、メキシコのCabo San Lucasとバハ半島の南端への釣行でのことだった。
バハ・カリフォルニアの東岸に沿ってLorito沖で釣りをしているとき、Cliff Brignallは大学を出たばかりの3人の若いアメリカ人の冒険家に偶然遭遇した。勇敢な3人組のリーダーはラルフ・クロック。若々しい精神に満ちあふれた彼と二人の友人は、カリフォルニア湾の北端San Felipeから、Cabo San Lucasまでの1000マイルを自家製の船外機付15フィートのボートで初めて航行しようとしていたところだった。旅は十分に計画されていたが、若者たちはメキシコの船舶許可証を取得しそびれていた。BrignallがCaloで彼らに再会したとき、彼らのボートはまさに押収されようとしていて、3人の乗組員たちも意に反してメキシコ当局のゲストとなるところだった。Brignallは彼らの身元を保証すると買って出、ちょっとした人当たりの良いおしゃべりと、もしかしたら幾ばくかのペソを使い、彼の誓約書をもって彼ら3人と、その船を取り戻すことに尽力した。
Cliff Brignallはその胸中では引退を考えていた。実際のところ、彼を成功に導いたSevenstrand社のルアーの名にちなみ、「ナックルヘッド」と名付けた25フィートのフィッシング・ボートを造船中だった。処女航海はアラスカ沿岸への大変な釣り旅行が予定されていた。Brignallはラルフ・クロックの操船技術、知識、そしてその熱意に感銘を受けていて、ついに翌年彼に声をかけた。彼はラルフに、「ナックルヘッド」号の造船を手伝い、そしてアラスカ州Ketchikanへの釣り旅行に同船して協力してくれないかと頼んでみた。クロックは大喜びで同意した。ワシントン州ウッドランドで数本のフェンウィックのロッドをピックアップするため立ち寄った後、彼らは北の海を目指し出発した。
この釣り旅行ののち数年間、Brignallとクロック一家は付き合いが続いた。1961年、ついにBrignallは引退の準備を始めた。彼は、ラルフの父で、成功した弁護士であるヘンリーを呼び、彼とその息子ラルフと、スタンフォードの工学部出のフィルにフェンウィックとSevenstrand社の買収に興味があるかをたずねた。クロックはこの好機を大変喜んだ。社長にフィル・クロック、重役にラルフを迎え、フェンウィックの物語は次章は始まった。

ランカースティックTMの誕生

クロック家によるフェンウィックの買収に続き、フェンウィックの行く末を劇的に変える、将来の発展を助けることになる第二の出来事が起こった。それは、専門化されたトーナメント・スポーツとしてアメリカ中で急速に発達しつつあったバスフィッシングの競技である。精力的なリーダーであり熱心なマーケッターでもあるフィル・クロックはこの傾向を正確に把握していた。彼は、1967年にフェンウィックをカリフォルニア州ウェストミンスターに移し、会社を再編成した。このときまでに、フェンウィックはドン・グリーンが作るすべてのブランクを購入しており、また1968年にはグリズリー・ブランクを吸収し、ドン・グリーンはふたたびフェンウィックの一員となった。今や、ジム・グリーンとドン・グリーン(二人に血縁はない)のような才能に恵まれた二人のエンジニアとフィル・クロックの想像力溢れるリーダーシップにより、フェンウィックは競技志向のバス・フィッシャーマンのために特別にデザインされた何本かの最初のロッドを開発した。かの有名なランカースティックにより、フライロッド、スピニング、そしてソルトウォーターのアングラーと同様に、フェンウィックはバス・フィッシャーの間でも急速にその評判を得ていった。
フィル・クロックの直感、活力溢れる個性、迫力、そしてリーダーシップに導かれ、フェンウィックは高品質のロッドを──クロックの言葉によれば──「一歩上をいくフィッシャーマン」のために作ることで、その名は急速に世界中に知られるようになり、フィッシング・ロッド市場のほぼ半分を支配するまでになった。ここでもまた、ジム・グリーンのキャスティングに対する情熱は、彼の繊細な、熟達した手により完璧だと感じられるまで、有名なフェンウィックのアクションを、試し、確かめ、そして洗練することを絶えず彼に課した。言い伝えによれば、ジム・グリーンは裏庭に穴を掘って腰の深さまで水を満たした。彼は毎晩、家に帰ってきてはその「テスト・リバー」に立ち込み、完璧なアクションを求め、来る日も来る日も彼が作り出すすべてのロッドを注意深くテスト・キャスティングし、数え切れない時間を過ごしたという。

グラファイト革命

70年代が到来し、わくわくするような新素材があらゆるロッド・デザイナーのイマジネーションをつかんだ。この驚くべき素材は、グラスファイバーより軽く、強いばかりでなく、十分な張りもあった。すなわちグラファイトである。これこそまさにグリーンが探し求めてきたものであり、1973年にはすべてがグラファイト製のフィッシング・ロッド──今や世界的に有名なHMGを投入したロッド・メーカーにフェンウィックはなった。これは高弾性のグラファイト製で、グリーンのロッド作りを劇的に変えたばかりでなく、釣り人の釣り方までも劇的に変えてしまうテクノロジーだった。
最初のグラファイト・ロッドの投入に加え、専門化された市場に焦点を当て続け、新しい特別なテクニックのためのロッドや、新しい釣り方を作り出した。例えば、フェンウィックによって開発されたフェンウィック・フリッピン・スティックTMはまったく新しいバス・フィッシングのメソッドを作り出した。これらのエキサイティングな数年のあいだに、フェンウィックの名は単なる純粋なロッド・メーカー以上のものになった。進化し続けるスポーツとしての釣りに対する情熱を分かち合うすべてのフィッシャーマンの証であり、彼らの高い目標と価値の象徴だった。毎月、人気のフェンウィック・ニュースレター──最終的には16ページの雑誌になった──のページは、フェンウィックの名が引き起こす溢れんばかりの熱狂や釣りの喜びに満ちたストーリーや記事でいっぱいだった。

ぼやけたヴィジョン

フェンウィックの名が世界中に広まったとき、突如、個人的な悲劇がクロック一家を襲い、フェンウィック・ブランドを暗い一時代へと導いた。1977年、フィルはガンと診断された。それは、1980年にわずか44歳で亡くなるまで3年間にわたる果敢な闘病生活の始まりだった。フェンウィックの舵取りにフィルが四六時中立ち会えなくなって、フェンウィックは方向性を失った。まさにこのとき、父と同じく弁護士を営むクロック兄弟最年少のエドウィンが父の保有する株を相続することになってしまった。重役のイスを得た彼は破滅的な影響をもたらし、フィルを社長から引き下ろそうとさえした。
フィルが健康を損なったとき、十全のリーダーシップと際立った特徴を失ったまま、重役たちにフェンウィックは引き継がれた。フィルは山を愛していて、彼は将来フェンウィックをロサンジェルス地区から、アイダホ州のBoiseのふもとに移転する計画だった。実際のところ、小さなラッピング用設備はそちらへ設置され、また、重役会のメンバーの何人かは会社移転に向け、その地域に拠点を探す準備をしていた。結局、重役会はこの計画を葬り去り、この不幸な騒ぎは、1979年にペンシルヴェニア州リティッツのウッド・ストリーム社のオーナー、Dick Woolworthにフェンウィックを売却する結果となった。
ウッドストリーム社は、ねずみ取りと自社の人気製品、オールド・パルのタックル・ボックスをアメリカ中の大型店へ売るための巨大な商品流通のネットワークを築き上げていた。彼のヴィジョンは、新しい廉価版のシリーズを彼のネットワークを通じて流通させ、フェンウィック・ブランドを劇的に発展させることだった。その結果、続く9年間の間に、フィル・クロックが言う「一歩上を行くフィッシャーマン」のためにロッドを作るというフェンウィックの社風は、より多くの廉価版ロッドの投入により失われてしまった。「すべてのフェンウィック製品は隅々まで、厳密な研究・開発のもとにあるべきだ」というフィルの信念は、大衆のためのロッドを作るという目的のため捨て去られた。フェンウィック・ブランドの広告と販促、さらに有名なフェンウィックのニュース・レター『ザ・ランカー・ガゼット』は打ち切られ、ブランドの高級なイメージは徐々に曇っていった。
結果として、1988年にフェンウィックが売却され、フェンウィック・カスケードのもとに再編されるまで、80年代後半を通して、有力な独立系の釣り具小売店の間で失墜していった。皮肉なことに、買い手は、ワシントン州ウッドランドに拠点を置く投資家グループだった。投資家の一人は1977年SchoffとSnyderからラミグラス社を買い受け、同社のオーナーなったDick Poseyだった。売却のニュースが釣り具業界に衝撃を与えたとき、an industry mover and shaker in Spirit Lake, lowa took notice. 彼が何もしなかったら、輝かしいフェンウィック・ブランドの遺産が永遠に失われてしまったかもしれない。

伝説の再生

バークレー・フィッシング社の創始者Barkley Bedellの息子、Tom Bedellは、父の釣り具会社の(経営の)手綱を引き継ぎ、アウトドア・テクノロジーズ・グループ (OTG) の名のもとに強大な組織へ再編していた。Tomは釣り人たちがフェンウィック・ブランドにたいして抱いている強くて感情的な執着を理解していた。彼はフェンウィックが築き上げた伝説的な水準にあった質とパフォーマンスを覚えており、フィル・クロックと二人のグリーンの掲げた高い志に回帰することでフェンウィックの以前の栄光を再構築することに着手した。
フィッシング・テクノロジーのよく知られたリーダーとして、OTGとフェンウィックは完全にマッチした。1988年、Bedellはフェンウィック社を買収し、創始者たちの遺産と価値に再び焦点を当てるようし向けた。違いの分かるアングラーに向け高品質のフィッシング・ロッド作り出すように再生させ、フェンウィックは徐々に、しかし着実に80年代前半に失ったシェアを回復した。
Bedellは知らなかったことだが、フェンウィック・ブランドの買収が告げられたとき、フェンウィックとガルシアを一緒に所有するという40年前にNate Buellが成し遂げられなかったことを彼は達成しようとしていた。というのも、1978年にガルシアとコノロンはスウェーデンのA.B.ウアファブリケン・フィッシング・リール・カンパニー社(A.B.Urfabriken fishing reel companyすなわちAbu)に買収され、アブ・ガルシアを創設していたからだ。1995年にBedellはアブ・ガルシアとコノロン・ブランドを買収することになり、フェンウィックとともに彼のアウトドア・テクノロジーズ・グループ (OTG) 傘下に加えた。彼はさらに5年後、アメリカでは最初ガルシア社によって供給されていたフランスの名高いスピニング・リール・メーカー、ミッチェルを獲得して、輪が完結することになる。この買収によって、彼の成功したバークレー・ブランドとともに4つの釣り具業界における偉大なメーカーを統合し、ピュア・フィッシング社が主導する産業に作り上げた。
今日、フェンウィックのテクノロジーの伝統は熱心なアングラーの専門化された要求を満たし続けている。現代のフィッシャーマンはもはやジェネラリストではなくスペシャリストである。彼らはバス・フィッシャーマンであり、ウォールアイ・フィッシャーマンであり、あるいはソルトウォーター・フィッシャーマンであり、専門化されたテクニックと場所が彼ら自身を特徴づけている。それに応え、フェンウィックのテクノロジーの伝統は、そのデザイナー、エンジニア、そしてプロ・スタッフに、違った釣りを求めるスペシャリストのために特別にデザインされた洗練されたフィッシング・ロッドを開発するよう駆り立て続けている。これが、半世紀近くにわたりフェンウィックのロッドが人々に知られ、またいまだ知られ続ける理由である。フィル・クロックはこう言った「考えられうる世界中のフィッシング・ロッドを」。

*1:原文はyardsとなっているが、フィートの間違いだと思われる

*2:このテキスト中では“Feralite”についての記述がない