日本の足もと

kechida2006-04-08

釣りに行ってきました。昼過ぎから雨に降られました。キャストも川歩きもなんとなく低調な一日だったので、無理をせずそのまま温泉に。スポーツとしての山遊びを日本にもたらした我らの大先輩ウォルター・ウェストンは『日本アルプスの登山と探検 (岩波文庫)』に次のように書いています。

(…) ある辺鄙なところでは、村人が一ヵ月も温泉に浸かり続けていることがあり、そのまま眠っても身体が浮かないように (…) 膝に大きな石を抱いているということである。チェンバレン氏のいうところによると、そこの湯番で七十三歳になる老人は、冬の間はほとんど湯に浸かっているということだ。また、あるところでは村人が、「今は夏場で忙しいものですから、一日に二度しか入浴するひまがなくて、汚い身体をしています」と詫びを言ったということである。そこでチェンバレン氏が、「それでは冬はどれくらい入りますか」と尋ねると、「冬は仕事がありませんから、一日に四、五回は入ります。子供たちは寒いと思えばいつでも入ります」と答えた。この点で中国人の習慣を知っている人たちは、少なくとも風呂好きは日本文化の固有の要素であるというチェンバレン氏の意見に、ただちに賛成するだろう。

ウォルター・ウェストン『日本アルプスの登山と探検』1997年、岩波文庫、pp.84-85

ところでこの温泉、露天風呂もありましたが、なぜかそこには『SLAM DUNK』の主人公・桜木花道をデフォルメした石像が設置されていました (ドラエモンもありましたが)。またしてもウェストンの次の一文を思い出してしまいました。

私が前に日本で住んでいた家の近くに古い寺〔兵庫の能福寺) があり、その境内のダイブツ (兵庫大仏、露座。現・神戸市兵庫区〕は、日本各地でみかける大仏のなかでもっとも新しく、しかももっとも注目すべきものである。その顔には、じっさい、敬虔な仏教徒が憧れるあの涅槃──絶対的な静寂と無感動の状態──に特有な、伝統的な表情が現れている。しかし、その仏像の作者は、仏像の額につける小さな金属のいぼ──神聖な「法の珠玉」を表す──のかわりに、電球をとりつけたのである。今日、このもっとも注目すべき民族は、その特徴であった何百年来のしきたりや古い考え方の上に、近代文明の新奇なものを手当たりしだいに継ぎ足しているが、見方によればこの仏像は、そういう日本のありのままの肖像であり、青銅製のシンボルなのである。

同前、pp.19-20

ちなみに脱衣所で流れていたBGMはレベッカの「フレンズ」という曲を琴のような音を用いて和風に、そして雅にアレンジしたインストでした。さらに付け加えるなら、浴室にはヒノキ風の柄が入ったプラスチックの桶と椅子があり、露天風呂の目隠しの柵は竹風のプラスチックの柵でした。なにかの拍子に自分がカッコ良いものなったと錯覚することを戒めるため、個人的にはこのような日本のカッコ悪さをキチっと直視していきたいなぁと思うのでした(笑。
◇今日は防水ハウジングを持っていったので風呂場でも撮影することができました。一度脱衣所に戻り、ロッカーから防水ハウジングに入ったカメラを取り出し再び浴場でよく分からない写真を撮っていた私はかなり怪しい目を向けられていました。しかも一人だし。