『釣りキチ三平』における死と再生──釣りキチ同盟の射程と限界(1)

「政治」から「環境」へ──「ジョー」と「三平」に見る70年代の転換点

学生運動華やかなりし60年代「右手にジャーナル、左手にマガジン」という流行語があった。ジャーナルとは『朝日ジャーナル』を、マガジンとは『少年マガジン』を指す。現在のオタクたちの間に広がる嫌・朝日=左翼ムードからは想像しづらいが、当時は左派とマンガ=サブカルチャーの親和性は高く、上記の流行語もある種の気分を表していたに違いない。
当時、『マガジン』誌上では1968 (昭和43) 年より「あしたのジョー」が連載中で、1970 (昭和45) 年3月24日、詩人の寺山修司により矢吹丈との死闘の末、命を落とした力石徹の葬儀が講談社の講堂で執り行なわれた。その1週間後の3月31日、日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」は赤軍派によってハイジャックされ、9名の赤軍派の兵士は北朝鮮に亡命する。このときのリーダー田宮高麿は声明文の最後を次の一文で締めくくった。

最後に確認しよう。われわれは“明日のジョー”である。

1972 (昭和47) 年、連合赤軍による浅間山荘事件が起こり、左翼運動の自壊が決定的なものとなった。政治運動の高揚は終わりを迎え、シラケムードの広がる1973 (昭和48) 年、「あしたのジョー」の連載が終わる。そして同年7月、『マガジン』誌上で矢口高雄の傑作釣りマンガ「釣りキチ三平」の連載がはじまる (なお、現在のコードでは「キチ」という言葉は基本的に好まれていないので、本稿では以後「三平」と表記する)。1983 (昭和58) 年まで連載は続き、単行本は本編65巻に番外編2巻を加える大作となった。
この「ジョー」から「三平」へのバトンタッチは単なる偶然には思えない。人は「政治」に敗れてはじめて、「環境」「自然」「故郷の山河」を発見したのではないだろうか。これは公害汚染が深刻化した時代背景も関係しているだろうが、それだけでもないはずだ。(続く