『トラウト・バム』雑感

kechida2007-05-21

あれから4ヶ月。ようやくジョン・ギーラックの『トラウト・バム』を読み終え、無性にバス釣りに行きたくなりました。
日本で言えば、湯川豊氏の釣りエッセイはギーラックに匹敵するようなとても素晴らしいものですが、慶応大学出身、大手出版社に勤務し、取締役まで務め、大学教授に再就職するというのは人生の成功者そのものであり、そういった経歴の華々しさは必然的に上品さを伴います。そして私にとっては、この上品さが氏を彼方の釣り人として認識させてしまいます。
ギーラックとてかなりネコをかぶっているというか、私に比べればはるかに人生の成功者であるでしょうが、それでもなんとなく自分に近い、と思ってしまいます。もちろん、これは罠であることも認識しています。人生にちょっぴり疲れはじめたフライフィッシャーマンが彼のエッセイを読んだなら、誰もが「自分になんとなく似ている!」と感じてしまうに違いありませんから(笑。これが人気の秘訣なのでしょう。でも、たとえば彼の「ケーンロッド」の章には、レナードという名前以上にフィリプソンヘドンという名前を目にします。「バスポンド」という文章を読むなら、彼はトラウト・バムであると同時に、バス・バムであることもたちどころに理解できます。「釣り奇襲隊、出撃」は私が今まで目にした中でフロートチューブについて書かれたもっともブリリアントな文章です*1。しかも、パンフィッシュ――ギルやクラッピーも真剣に狙っているみたいですし(「Sawhill Portlait」参照)。もともとブラックバスフライフィッシングを楽しんでいて、B級グラスロッド好きの私は、やはり親近感を感じずにはいられません*2
しかも、彼はマスを狙う場合でも、マイナー志向を思う存分発揮します。すなわち、だれも狙わないような地味な区間、目立たない支流を必死の思いで釣り(「小川を釣るもの」参照)、バックパックにキャンプ道具を詰め込み源流遡行を楽しみます(「源流」参照)。
ところで、アメリカの事情は知りませんが、日本ではしばしばバスフライマンがトラウト至上主義的な表現で、正統的フライフィッシャーマンを揶揄しているのを目にします。分からんでもありませんが、ギーラックのような自由な釣り人を見るとあまり意味のないことに思えます。私はもともとルアー釣りをやっていたし、フライもバス釣りから入ったし、そういった意味で「ルアーフィッシング」と比べて「フライフィッシング」を、しかも「サケ・マスのフライフィッシング」特別視するような考え方が嫌いでした。でも、今はギーラックの次のような文章を素直に読むことができます。

春、13の池はきれいで、誰もいない。野生動物を驚かせ、時折バードウォッチャー、気の早いルアー釣りをなどを見かけるだけだ。ルアー釣りは、「あんた、フライロッドで何やってるんだい? ここにはマスはいねえよ」と挨拶してくれるかもしれない。

別に特別ではありませんが、同じ「疑似餌」を使うとしても、やはり「フライ」と「ルアー」は違う釣りだと思います。これは、「エサ釣り」と「欧米由来の疑似餌釣り」が異なるように、「ルアー」と「フライ」は異なるのだと思います。「ヘラ釣り」と「メジナ釣り」だって一緒にはできないと思います。別にどちらが高級、とかそういう話ではまったくありませんが。
もうひとつ特筆すべきなのは、まったく文章に宣伝がないことです。もしかしたら「巧妙な宣伝」が含まれているかもしれませんが、あからさまな宣伝はゼロです。30年前のフィリプソンの竹竿や、鉄くず同然のフォルクスワーゲンを宣伝して得する人間が、世界のどこにいるでしょう? 商業誌に限らず、ブログの世界ですら、アフィリ目的の宣伝や、知り合いというだけで、その品を宣伝するような文章が多くあふれている中、これは驚くべきことです。せめて、趣味の世界ではあのいやったらしい広告屋とは無縁でいたいと願うのは私だけでしょうか。
私は、この本の著者、翻訳者、出版社と一切利害関係を持ち合わせていませんが、しばらくこのネタが続くかも(笑

*1:この題もまた、他愛もないにもかかわらず、釣り人なら思わずニヤリとしてしまう、あの隠語というか符牒のひとつなのです!

*2:グラスロッド好きは以下のように書かれています。「とくにグラス好きの連中は、このストーリーの中で取り上げられることも、注目を浴びることもない奇人たちであるが、最近作られ始めた新しいロッドを見ると、彼らは預言者のようにも思える。彼らはまた、そうとう金も節約できたはずだ。」