ブナ、山毛欅、橅

kechida2008-01-09

芦澤一洋には、求道的というかスピリチュアルというか、なんとなくそんなイメージを抱いていて敬遠していました。私は、湯川豊氏になんとも言えない「上品さ」を感じます。上品さは教養や経済的余裕、そしてなにより本人にその資質があってはじめて獲得することができます。では、人は教養と何があれば、求道的になれるのでしょうか? 
そんな芦澤一洋の『続 フライフィッシング紀行 (つり人ノベルズ―名著シリーズ)』という本をはじめて読みました。「続」が付かない『フライフィッシング紀行 (つり人ノベルズ)』は、途中で読むのを止めてしまいましたが、『続フライ〜』は非常に面白く、あっという間に読了してしまいました。いっぽうで、ふたつほど決定的な違和感を感じました。
ひとつ目は、動植物名に対して漢字を多用することです。私は昔、編集者のはしくれでしたので基本的に動植物名にはカタカナを使うと叩き込まれました。これは案外大切で、イヌは漢字で「犬」と表記し、タヌキは漢字の「狸」だと読みずらいのでカタカナで「タヌキ」と表記したりすると、いろいろと齟齬が生じます。特に、同じ本の中で「タヌキ」と「狸」の表記が混ざると、単なる表記の不統一になります。たとえば文学作品でイヌを「狗」と書き、それに一定の意味を持たすような用例は考えられなくもありませんが、実用書などでは無用な混乱を招くだけです。ミソサザイは漢字で鷦鷯、あるいは三十三才と書くそうですが、読める人は極めて稀だと思います。
「続フライ〜」では木の名前には漢字を用いてます。いっぽう、なぜか魚は「ヤマメ」「イワナ」と表記されています(ただし、サケだけは「鮭」と書かれている)。同書は元々『山女魚里の釣り』という題で出版された本を再構成したものだそうですから、さらに不思議です。余計な詮索をするなら、版元の釣り人社が魚の名前はカタカナで表記するという強固な方針を持っていたのかもしれません。いずれにせよ、木は漢字、魚はカタカナという方針が貫かれているなら、それは尊重すべきことでしょう。
ただし、ブナを山毛欅と表記することはどうにも居心地が悪いです。昔の職業病で、まず誰にも読めないと思ってしまいます(もちろんルビは振られている)。そもそも「ブ・ナ」という二音節を三文字の漢字の連なりで表記するということは基本的にあり得ないので、なにかしら不自然な経緯があるに違いありません。さっそくグーグルで検索してみました。
和泉晃一という方の『別府街角ウオッチングhttp://www.ctb.ne.jp/~akiizumi/index.htmlというサイトの「草木名のはなし」というコーナーの「ブナ」の項にはいろいろ興味深い話が紹介されています。

ところで、この名訳の誉れ高い「流浪の民」にも、植物学的な観点から見ると、誤訳ともいうべき問題点がある。ブナの漢名に「山毛欅」を充てたことである。
山毛欅は、いうまでもなく漢字でブナの意である。だが、これは中国産のブナの一種を指す名前。中国にはブナ属の木がいくつかあり、その代表的なものが山毛欅である。もちろん、日本に自生するブナとは異なる。

Wikipediaでも同じようなことが書かれています。山・毛・欅という漢字の連なりは、どう読んでも「ブナ」と発音できない上に日本のブナを指すわけではないのです。同記事にもあるように、日本語は元来文字を持っておらず、ある音の連なりが単語としてあったわけです。後にこれに漢字を当てました。漢字の意味にこだわらず一音節に漢字一文字を当てたものが万葉仮名であり、そこからひらがな・カタカナが生まれました。さらに地名の場合は、二文字で表記するようになり、音訓が転じたり、同音異義語に横滑りするうちに、その起源や元々の意味が見えにくくなっています。たとえば日光には二荒山神社がありますが、「二荒」は「にこう」とも発音できるわけです。
単なる表記上の問題で、本の主題に関係なければいいのですが、日本各地を旅し、谷を釣り、思索を重ねる同書においては、ブナを山毛欅と表記することは不自然さを免れない気がします。同書で繰り広げられる思索は古代の先住民、その暮らしぶり、地名の起源にまでおよびぶことがあります。漢字で表記するなら、木へんに無と書くにした方が他の木の名前と比べて違和感がありません*1。前述のリンク先にある、ブナはミナだった、という意見はたいへん説得力があり、かつ興味深い話です。たしかに考えてみれば、m の音は b にしばしば転じます(馬:ま→ば、美:み→び、無・武:む→ぶ、木:もく→ぼく、etc)
もうひとつ感じた違和感は、日本の風土・歴史について深い思索をめぐらす同書において「フライフィッシング」が占める位置がまったく見えてこないということです。著者もそのことを意識していたかもしれません。しばしば散見される「亜成虫毛バリ(ソラックス・ダン)」「竿師(バンブーロッドビルダーを指すと思われる)」「小継竿(マルチピースロッドやパックロッドのことを指すと思われる)」という不自然な表現が、そのことを物語っているようでもあります。

*1:ちなみにこの文字は中国から伝来した文字ではなく、日本で生まれた漢字=国字だそうです