夏にじます

kechida2008-07-06

父が入院し、昨晩は病院へ泊まり込みで見舞ってました。長い夜のヒマつぶしのために、本を何冊か買うことにしました。これを機会に『20世紀少年』を揃えようかと思いましたが、たまたま足を運んだ書店改造社書店という。私の自我の形成に一役買った千葉パルコの書店)では、歯抜けでしか在庫していなかったので却下。あれこれ悩んだ挙げ句、村上春樹の『海辺のカフカ (上) (新潮文庫)』と(なにしろ春樹は読みやすい!)、同じく村上春樹が訳した『Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)』を買いました。後者は以前のエントリのコメント欄でも話題にしたことがある「足元に流れる深い川」を収録していて、さっそく読みました。
ミニマリストとも言われたレイモンド・カーヴァーの文体は、厳格に抑制されており、こう言っちゃアレですが春樹の対極にあるように思えます。春樹の文体は非常に多くの無用の修辞や、相づちを含んでいます。

「まあ悪くない」とカラスと呼ばれる少年は言う。「とりあえずはね」強調は原文傍点)

この手の相づちは物語の展開に一切寄与することはありません。削除しても後の展開に一切影響はないでしょう。カーヴァーなら書かないに違いない一文です。春樹はそこを書きます。書くことによって春樹的な独特のリズムを獲得するわけですが、さらに別の効果もあるような気がします。自分の書いたことに照れて、それを自分でフォローしているような感じがします。すなわち、カーヴァーは「おい、黙れ」とだけ書き、春樹は「おい、黙れ……とかなんとか言ったりなんかしちゃったりして」と書いているような感じがするのです。作者が常に先回りして自分の書いたことをフォローしていく結果として、春樹の作品は「安心して読める」ものになっているのかもしれません(名前は思い出せませんが、とある文芸評論家がそんなことを書いていた記憶があります)
この傑作選には「サマー・スティールヘッド(夏にじます)」と題される短編も収録されています。原題は Nobody said anything(まさに前回のエントリでトーマスさんが言うとおり「不在」がテーマになっています。「誰も」「何も」言わなかったのですから・笑)。雑誌初出時の題が Summer Steelhead だったので「サマー・スティールヘッド(夏にじます)」という邦訳になったようなのですが、これは釣り人的にはいただけません。だって「にじます」と「スティールヘッド」は違うでしょ? しかも、鶉うずらや雉(きじ)は漢字で書かれている中(「鶉」なんて普通に読めます?)、「にじます」だけがひらがななのはけっこう違和感があります。