Justice to the People

kechida2013-04-28

優れた作家はいつでもそうであるように、歴史をよく学び、その歴史にちょっと手を加え、もしかしたらあり得たかもしれない虚構の物語をあたかも本当の出来事であったかのように、まことしやかに語ってみせます。
時代劇という個人的にあまり馴染みのないジャンルだったゆえ(要するに時代劇はダサイ、おっさんの好むものだという単なる偏見でしかないわけで、まったく恥ずかしい限りなのです)藤沢周平の作品に接した事はなかったのですが、相変わらず何をやる気にもならず怠惰に過ごしていた黄金週間中にたまたまテレビで目にした『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』『武士の一分』という藤沢周平×山田洋次による三作品があまりに素晴らしく、面白くてただただ驚くばかりなのです。
どの作品にも共通するのは作品中で「武士の一分」とも表現されるある種の美意識や気分=センチメントです。すなわち、運命に翻弄されながらも、公平さ、自尊心、人間としての矜持をけっして失わないという決意です。その美意識や気分は、あるときは切腹・自刃という形をとる場合もあるし、果たし合いという形をとる場合もあります。逆らうことのできない藩命があり、その一方で武士として、人間として従わなければならない「道」があります。そのふたつに引き裂かれ、翻弄される下級武士たちの葛藤が、基本的な物語の骨格となっています。そのストーリーにさらなる奥行きを与えているのが恋愛=ラブ・アフェアーであり、幕末の近代化です。
前者の恋愛においては「身分の差」が、物語を推進する力となっています。当時において、身分の差、性差が人々に強いる不公平さは、まったくもって根拠のない不当な差別でしかないのですが、にも関わらず、その差別が強いる彼我の意識がときに非常に美しい男女のあいだの機微となりうる場合もあるという事実がとても自然に描かれています。一方、差別を前提とした関係にあぐらをかいている人間たちの浅ましさ(女を手込めにする代官)を表現することも忘れていません。
そして後者の近代化は、効率よく人を殺すための武器=鉄砲の普及として描かれます。鉄砲は腹切りや果たし合いが体現していた武士道を無効にし、武士を兵隊=単なる殺人機械へと変えてしまいます。
映画の企画としてもよくできていると思いました。『たそがれ清兵衛』は真田広之宮沢りえ、『隠し剣 鬼の爪』では永瀬正敏松たか子、『武士の一分』では木村拓哉檀れいがヒーローとヒロインを演じています。山田洋次監督のこれらの作品に出演する事で、どの役者もその幅を広げ、新たな魅力を獲得しているように僕には見えます。また時代劇にリアリズムを取り込む事で(ロケセットを使わない場面が多いと思われます)、このジャンルにまったく新しい風を吹き込み、新鮮な魅力を与えています。外光で撮影する場面においては、世界は一貫してアンバーがかったノスタルジックな色彩で描かれています。一方、室内や夜の撮影においては暗さを暗さとしてしっかり描写しています。山形出身の藤沢周平が描く方言の世界はことさら魅力的で、観客たちにとっては耳に心地よく、話している俳優たちも山形弁を話す事を楽しんでいるように見えるでがんす。


※残念ながら『武士の一分』の予告編はYouTubeでは見つけられませんでした。キムタクが出ているので仕方ないのでしょうか? 残念です。