イーストウッド礼賛

BS2でクリント・イーストウッド『アウトロー』がやっていた。冒頭を見逃したものの、後は最後まで釘付け。クリント・イーストウッドはいつでもちょっとだけヒーローであることを受け入れる。ちょっとだけ勧善懲悪風の物語を語ってみせる。でも必ずちょっとだけ。『アウトロー』においても家族を殺され復讐に燃える南軍ゲリラであり、インディアンや女性を擁護する正義の見方としての役柄を演じてみせる。しかし、見方を変えればただのならず者の殺し屋に過ぎない。基本的に勧善懲悪の話でしかないのだが、イーストウッドは正義を振りかざさない。倫理を語らない。ただ目の前の問題を片づけ、去っていくだけ。戦うのは敵が悪だからか? そうは見えない。闘牛みたいなもんである。戦うべくして運命づけられ、敵の目の前に放たれたから戦うに過ぎない。けっして正義のために戦うわけではない。何が、誰が戦わせるのは問わない。それを考えるのは鑑賞者の自由である。いっけん勧善懲悪風の物語でありながら、世の中そんな単純なもんじゃぁないよってのも見事に描き出す。本作も最後「みんな戦争で(自分の一部が)少し死んでしまったんだ」みたいなことを主人公であるイーストウッドは口にする。
一般的に西部劇が素晴らしいのは、決闘のシーンが冗漫でないからだ。血まみれになりながら相手をなぶり殺したりしない。アッという間に決着がつく。これでもかというほど持続する緊張が最高潮に達した瞬間、いつ拳銃を抜いたか分からないまま銃声が鳴り響き、敵は倒れる。血が噴き出したり内蔵が飛び散ったりしない。撃たれた敵は苦悶の表情を浮かべることもない(その辺は日本の時代劇というかチャンバラの立ち回りと通じるものがある)。
『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』『許されざる者』みたいな西部劇をはじめとして、『ダーティー・ハリー』のような刑事モノでも、『スペースカウボーイ』のようなSFでも基本的な構造は変わらない(キャラハンは「ダーティー」な悪徳刑事でしかないのだ)。
Go ahead. Make my day.