グラバー・コネクション

kechida2005-05-10

ブラックバスをはじめて日本に移植したのは赤星鉄馬である。大正 (1925) 14年のこと。当時、大正銀行の頭取の職にあった赤星は、韓国で成歓牧場も経営しており同牧場支配人の杉沼忠三が出張で滞米中、カリフォルニアの葡萄王だった長沢鼎 (かなえ) の協力を仰ぎ、日本に移植されることになるバスの種魚を採取した。

それゆえ、特に帝大に依頼して学術研究魚として、わざわざワシントン政府の許可を得、私の米国加州にいる伯父の長沢鼎老と杉沼氏が協力して種魚の採取に着手し、約一カ年を費やした。これをファウテン・グローブ葡萄園中の小池に釣り溜めておき、大正十四年五月、杉沼氏の帰朝にさいし……このブラックバスを持参せしめたのである。*1

長沢鼎は元薩摩藩士であり、トーマス・ブレイク・グラバーの尽力により英国留学を果たし、グラバーの出身地であるスコットランドアバディーンのグラバー家にホームステイ、当地のギムナジウムを優秀な成績で卒業したという。余談ながら同じくグラバーの協力で英国留学した伊藤博文井上馨もグラバー家を訪ねたそうだ。長沢は日本に戻ることなくアバディーンからアメリカに渡り、ニューヨークなどの葡萄園で働きながら学び、後にカリフォルニア州のサンタ・ローザで葡萄王となった*2。その長沢鼎が赤星鉄馬の伯父だという。
ちなみに赤星鉄馬は東京ロッド・エンド・カンツリー倶楽部の会員でもあった*3。日光に放たれた鱒は人々に受け入れられた。奥日光と中禅寺湖に鱒を放った人々は高い志をもった紳士であるとして、ある種の憧憬をもって受け止められている。一方、芦ノ湖に放たれたブラックバスは今日にいたり、もはや失地を挽回するのが不能なほど強烈な社会的反発に遭い、風前の灯火となっている。それはなぜなのか?

* * *
◇写真は岩手の某海岸の土産物屋。この手の建物って海辺や観光地にけっこう多い気がする (例えばロープウェイの駅とか)。建築的にはなかなかシャレているように僕には見えるのだが…… (本文とは一切関係ありません)。

*1:金子陽春・若林 務『ブラックバス移植史』pp.24-25に引用された「赤星遺稿」の孫引き。強調は引用者

*2:この間の事情については裏を取っている最中なので、原典を示すのは今しばらくお待ちを。長沢鼎についてはコチラコチラも参照されたい。

*3:福沢和美『日光鱒釣紳士物語』pp.159, 161を参照