グラバー・コネクション2

kechida2005-05-14

1997年に開催された「ジョサイア・コンドル展」の図録を入手した。おそらく色々出てくるだろうなぁという予感に導かれながらツラツラ眺めていたら、やっぱり出てきた。
鹿鳴館の建築などで有名なジョサイア・コンドル (1852-1920) は*1、1877 (明治10) 年からいわゆるお抱え外国人の建築家として、工部省と太政官会計局に仕えた後、1890 (明治23) 年から岩崎彌太郎の三菱社の顧問となる。一方、戊辰戦争終結から1年後の1870 (明治3年) 年、トーマス・ブレイク・グラバーのグラバー商会は破産し、グラバーの所有していた長崎の高島炭坑の経営を引き継いだ三菱社に1880 (明治13) 年よりグラバーは雇われていた。当初は長崎の高島炭坑に残っていたが、4年後、岩崎彌太郎から岩崎彌之助に三菱社の社長がかわり、外国人社員の重要性を認識していた彌之助によりグラバーは東京勤務を命じられた*2。同じ英国出身であったためかグラバーとコンドルは親しく交遊していたようで、同図録によると東京富士見町のグラバー邸にもコンドルが関与したとされている。

一方彼 [グラバー] が住んでいた総二階の洋館は伊藤博文から譲り受けたものとされている。グラバーがコンドルに設計図を依頼したものの建築はしなかったものと思われる。*3

1908 (明治41) 年、コンドルは岩崎彌之助邸を完成させ高い評価を得、以後多くの個人邸宅を手がけるが*4、その前年にコンドルは赤星彌之助大磯別邸を手がけているのだ。そう、この赤星彌之助は赤星鉄馬の父にあたる実業家で、樺山資紀が海軍にいた時代、物資調達*5で財をなしたという。そして、コンドルは1912 (明治45) 年、赤坂台町 (当時) に赤星鉄馬邸を設計している。コチラで図面を見ることができる*6。今度はコンドル経由でグラバーと赤星鉄馬がつながった。
ちなみに、コンドルは日光中禅寺湖畔に英国公使館別邸も設計している。これは当時の駐日英国公使アーネスト・サトウの依頼によるもので、この場所には現在も英国大使館の施設があるそうだ。アーネスト・サトウは外国人向け日本旅行案内書 A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan (通称『日本旅行案内』) の制作に携わり、1881 (明治14) 年に発表された初版本ですでに日光を流れる大谷川の鱒釣りについて言及している。

川の中には、たくさんの鱒 (ヤマメ) が繁殖しており、良好なスポーツとなりえる。地元の人はミミズのたぐいや毛鉤を使って上手に釣っている。*7

初版では中禅寺湖は「いかなる魚も棲んでいない」とされていたが、1873 (明治6) には岩魚が、1887 (明治20) 年からは、政府によって合衆国産のニジマスが放流されていた中禅寺湖は鱒釣り場として注目を集め、1893 (明治26) 年の『日本旅行案内』第三版では中禅寺湖は「すばらしいサケ科の鱒や他の魚が豊富である」と紹介されるにいたった。

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◇晩のツマミはこごみの天ぷら。ウマー (写真と本文は一切関係ありません)。

*1:当ブログでも何度か言及している

*2:福田和美『日光鱒釣紳士物語』pp.51-52。ただし、1881 (明治14) 年から三菱社に雇われたようにも受け取れる。

*3:原徳三 [コンドルの建築作品リスト補遺] 『鹿鳴館の建築家 ジョサイア・コンドル展』図録、p.225

*4:前のエントリで言及した六華苑こと諸戸清六邸もこれに含まれる

*5:具体的にはアームストロング砲などの軍需品。

*6:ただし、実際の建物がコンドルの設計通りだったかどうかは定かではないらしい。

*7:福田和美『日光鱒釣紳士物語』p.22からの孫引き。