今さらアノ本

kechida2005-10-17

マクリーンの川 (集英社文庫)』を読んでます。まだ途中ですが、先走ってしまいます。映画は見てません。先に書いておきますが、エサ釣りとルアー釣りを軽蔑する様にはうんざりします。以前にも書きましたが、たとえばフライ釣りを楽しむアフリカ系アメリカ人はいるのでしょうか? 私はアメリカの現実をまったく知りませんが、比較的リベラルな場所でもそれほどいないと思われます。おそらくルアーのバス釣りですら、そんなにいないのではないでしょうか。ま、バス釣りが盛んなのは南部ですから。開高健オーパ、オーパ!! アラスカ篇 カリフォルニア・カナダ篇 (集英社文庫)』の240頁にはノベ竿でナマズを狙うアフロ・アメリカンの女性の写真を見ることができます。フライ釣りはこのような現実の上に成り立っているのではないでしょうか。
と、愚痴はこれくらいにして本題に。この本を読んだ釣り師なら、誰もが「もうちょっとこの翻訳どーにかならんのか?」と思うのではないでしょうか? 私は激しく思いました。

当たりがあったとき、針の合わせ方が早すぎるのだ。針の先には「かえし」とよばれるトゲがついているが、そいつを口か顎にすっかり飲み込んで、そのかえしがひっかかるようにならないかぎり、魚は飲み込んだ針を吐き出したり、押し出したりしようとする。 (p.99)

頭を抱えたくなります。そもそも「毛鉤」という単語を使っているにも関わらず、なぜハリは「針」なんだ、と思います。縫い針やマチ針みたいです*1。「ひっかかる」はhooked upとかなのかなぁ……。「押し出す」って魚に舌があるみたい……。こちらは原文にどう書かれているのだろう?

大きくて活発な黄色いバッタに似ている、コルクでを作ったフライを使い、(中略)、水面に浮かぶコルクのバッタでしばらく釣ってみたあと、ウールでを作ったひとまわり大きい黄色いフライを試してみた。(p.145、強調は引用者)

この「腹」って要するに「ボディ」のこと? 「腹」はないだろう「腹」は。
というワケで萎えまくって、半分を残してところで結末を読んでしまいました。屁理屈をこねるのが好きな私は、この物語をどう読むべきかはなんとなく方針を立てていました。「弟」は自分の思い通りにならない「外部」の象徴に他ならないワケです。この弟も外部を抱え込んでいます。アメリカ原住民 (インディアンとも言う) の女性はその一例かもしれません。弟は外部へ出ることを切望していましたが、アルコールに溺れ、そして短い生涯を閉じます (しかし、もしかしたら弟は死の直前に外部を見たのかもしれません)。 一方、兄は「外部」があることを知りながら、「River runs through it」なんてうそぶいては、母なる自然の膝元で怠惰にして甘美な時間を過ごします。たぶん、そういう話なんじゃないかと思います。「外部」は「向こう側」とか「自分の知らない世界」なんて言ってもいいかもしれません。
暇と能力があったら、この本を釣り師向けに翻訳してみたいなぁと思ったりします。たとえば「ディアヘア」と書いて「鹿の毛」とルビを振るか、「鹿の毛」と書いて「ディアヘア」とルビを振るか。そんな面倒なことはせず、頁の下1/4くらいは図版と注釈のスペースにして、釣り師の間でフツーに使われているカタカナはそのまま使ったりしてもいいかもしれません。

*1:もちろん「針」でも間違ってはいませんが、「毛鉤」という字を使っているなら「鉤」という字に統一してもよいのでは、ということです。余談ながら先日のエントリで触れたカブラー斎藤氏は「鉤」ではなくて「鈎」という字を使ってますね。中が「ム」。