イワナの夏/グレン・グールド

kechida2005-10-21

この間、八重洲ブックセンターで釣り本と山岳本を紙袋いっぱいに大人買いしてきて、今日、その中の一冊、湯川豊イワナの夏 (ちくま文庫)』を読んでいました。「ヤマメ戦記」と題されたエッセイ集の4番目の話は「グレン・グールド」という文章でした。
「桜の花を見るとヤマメを思う」という著者が、仕事の都合からある年の4月に釣りにいけなそうだと判明し、煩悶します。そのような焦燥感を抱いているときに聴く音楽がグレン・グールドが弾くバッハなワケです。

そういう春の真夜中の、あてどのない焦りと屈託を慰めるために、私はヘッドフォンをつけてレコードを聴き、さらに時間を浪費するのだ。とっかえひっかえ聴くレコードのなかで鎮痛剤として私にいちばん効き目があるのは、カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドが弾くバッハである。もともとはカミサマに捧げるようなお経のようなバッハの音楽は、私をカミの御許にではなく、少しは安らかな眠りに導いてくれる。

 「ゴルトベルク変奏曲」でも「平均律」でも、グールドの弾くバッハは私の心身の状態とは正反対に、衰弱や退嬰からもっとも遠いところにあるのがいい。(文庫版p.121)

この意見には100%同意します (ってかずいぶん昔にそんなことを自分のサイトにも書きましたが、こっ恥ずかしくなって削除しました・汗)。この文章は84年に発表されたものですし、文中でもグールドの死に触れているので (83年82年に逝去)、間違いなくグールドの死後に書かれた文章ですが、湯川氏愛聴の「ゴルトベルク変奏曲」が55年盤なのか81年盤なのかはこの文章からはうかがい知ることができません。「つやつやした、歯切れのいい音の流れ」という表現は81年盤にこそ相応しい気がしますし、現在なら「ゴールドベルク」と書くのが一般的ですが、「ゴルトベルク」というドイツ語風なのか今はあまり使われない表記で書かれているので、もしかしたら55年盤のことを指しているのかもしれません。私は81年盤が好きです。この最後のアリアを聴くと本当に泣きそうになります。心がすっかり浄化されます。
村上龍は鼎談集『EV.Cafe 超進化論 (講談社文庫)』のなかで同じようなことを書いています。

村上 バッハの「パルティータ」だっけ? 『限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)』を書いた無名の学生のころ、例えばいろんな日常の雑事があって、それを清めて原稿用紙広げるってのが俺にはあったわけよ。そういうとき清めるという儀式がなかなかうまくいかないんだね。その儀式のために音楽を利用するわけ。そのときに一番いいのは高橋悠治のバッハだった。
坂本 宇佐見圭司がジャケットを書いたやつじゃなくて、二枚組のほうかな?
村上 そうそう。同じのをグレン・グールドがやってるでしょ。すごく不思議なんだけど、高橋悠治のやつを聴くと、自分が今から何か表現するというような自分の意識が整えられるんだけど、同じようにグレン・グールドのやつを聴いても何か違うんだよね。(中略) 雑事の回路が、(中略) 高橋さんの曲を聴くとヒタヒタッとなくなっちゃうわけ。ところがグールドのは、もちろんそこも通過して……高橋さんのを各駅停車だとすれば、グールドのは急行みたいな感じで、ツンツンと行って、自分が書くのさえばからしくなるような感じがするんだよ。(pp.181-182)

湯川氏は「安らかな眠りに導いてくれる」と書いていますが、もともと不眠症のゴールドベルク伯爵のために書かれた曲だから、それはそういうモノなのかもしれません。

* * *
同書には、湯川氏の親友であった植村直己の死に接して書かれた文章も収録されています。それを読むと、どうやら氏は私が6月に行ったセンチメンタルとーほぐ一人旅と逆のコースをたどり、不意に親友の死を思い泪を流したようです。