文学と毛鉤

凍
文学と毛鉤って似ているなぁと思いました。すなわち、作者=釣り人、現実=虫、作品=毛鉤、読者=魚 () というワケです。文学作品は必ずしも読者に読まれる必要はありませんが、読者に読まれない作品はその存在を知るのが作者だけなので存在しないも同然です。
作品 (毛鉤) は作者 (釣り人) の想像力だけでまったくの絵空事を書いても構わないわけですが、一般には現実の体験 (現実の虫)、他人から聞いた話や書物を通じて得た見聞 (図鑑などで見た虫) などをもとに書かれる (巻かれる) のが一般的です。参照とした現実 () と、書かれた作品 (毛鉤) が比較的似ている場合ドキュメンタリと呼ばれます。一方、あまり似ていない場合フィクションと呼んだりします。実際にはいろいろ違いがあるのでしょうけれど、私はその程度に理解しています。
ところで、ここで問題となるのが作者 (釣り人) の見た現実 () を作品 (毛鉤) に完全に反映することは不可能だということです。またそのような必要もありません。読者 () とって現実 () らしく見えればいいのです。むしろ、現実 () を多少脚色して読者 () の興味を引くようにした方がかえって伝えたかったことがよく伝わります (釣れます)。
コチラコチラで話題になっていた沢木耕太郎』を読んで、そんなことをボンヤリ考えました。それにしても何という圧倒的な物語=現実! 面白すぎました (がっちりフックアップしました)。